不合理な組織にメスをーー「痛み」を伴う改革、やり遂げる信念

─ 2010年の創業から10期目を迎えるフリークアウト。アドテクノロジーのカオスマップの変遷をたどってみると、この10年間の熾烈な市場競争は明白だ。5人目のメンバーとしてフリークアウトに参画し、市場の黎明期から現在まで、その絶え間ない変化の最前線で戦い続けてきたのが、事業会社フリークアウトの代表を務める時吉 啓司だ。

会社のフェーズや市場環境がさまざまに変化するなか、常に粛々と成果にこだわってきた時吉。実力主義に徹する謙虚なリーダーは、事業の最前線で何を感じ、組織とどう向き合ってきたのか。時吉が見てきた風景をたどりながら、次なる成果に向けていま何をなすべきか、インタビューしていく。


時吉 啓司(ときよし けいじ)

FreakOut Pte. Ltd. President
株式会社フリークアウト 代表取締役社長

2011年10月、株式会社フリークアウトに入社。
創業期から営業チームのプレイヤーとして活躍後、マネジャー職を歴任し成長期を支え、同社は2014年6月にマザーズ市場へ上場する。
2015年7月、中東の拠点としてトルコに子会社FreakOut Turkeyを設立し、代表取締役に就任。
2017年1月、持株会社体制へ移行し、会社分割(新設分割)を実施。
事業会社の株式会社フリークアウトの代表取締役社長に就任(現任)。
2019年1月、国内・海外広告事業の統合に伴い、日本の事業会社代表と兼任する形で、FreakOut Pte. Ltd. Vice Presidentに就任。
同社をヘッドクオーターとして、国内・海外問わずグローバル市場での競争力強化を推進。
2019年9月、広告事業のヘッドクオーター、FreakOut Pte. LtdのPresidentに就任(現任)。
日本を含めたグローバル11ヶ国(2020年2月現在)のフリークアウト広告事業全体の経営全般を統括。
2020年1月、株式会社フリークアウト・ホールディングス 執行役員就任(現任)。

「5人目の社員」として参画、取引先の開拓に奔走した創業期

当時すでにメンバーとして参画していた佐藤 裕介(現 株式会社フリークアウト・ホールディングス 取締役)に誘われて、異業種からフリークアウトに入社を決めました。2011年10月、フリークアウト創業から一年経つ頃のことです。

新卒で老舗のアパレルメーカーに就職したものの、時代の流れを見て、インターネットや広告事業にはずっと興味を持っていました。未知の領域に飛び込む不安は当然ありましたが、まだ誰も通っていない道を切り拓いていくチャンスは、一生のうちにそう何度も巡ってくるものではないと思ったんです。

もし失敗しても、その過程で実力がついていればどこででもやっていける。そう思い、挑戦することを決めました。

フリークアウトは、ニューヨークで生まれた新しい広告取引の仕組みであるRTB(Real-Time Bidding)に魅せられた代表の本田が、その広告取引を日本で最初に手がけるべく創業した会社です。それは、最新の技術を応用して、それまでとは全く異なる広告取引の仕組み、「新しい広告の未来」を作っていくチャレンジでした。

当初は右も左もわかりませんでしたから、インターネット広告の基礎の本を読んだり、米国の既存主要プレイヤーについて勉強したりして、とにかく必死にインプットしていきました。また、広告主候補の企業決算からビジネスモデルを分析して、どうマネタイズしているのかなども訪問前に調べていました。毎朝営業メンバー同士で、その日訪問予定の企業に対するプレゼンをロールプレイしていたので、自分が担当する企業以外にも、いろんな業界の知識がつきましたね。

とにかく泥くさく、地道で時間のかかる仕事。決して楽ではありませんでしたが、不思議と「辛い」という感覚はありませんでした。自分の知識やノウハウを増やせば増やすほど仕事の成果が生まれ、直接的に会社を成長させる糧になる。新しい市場を切り拓いていくことに、とにかく夢中でした。仲間と日々真剣に語り合いながら、事業を一から作り上げていくことが純粋に楽しかったです。

そうして、“マーケットの夜明け”といえる黎明期に国内初のDSPベンダーとなった私たちは、市場が成長していくにつれて、次々と取引を増やしていくことができました。

─ 日本におけるRTB市場の成長とともに、急速に業績を伸ばしていったフリークアウト。数名でスタートしたチームは、その後わずか1年で50名を超えるまでに急成長し、時吉はマネジャーを任されることになる。

正直なところ、当時の私はマネジメントにまったく興味がありませんでした。それよりも自分が直接、お客さまのところに行って話をしたい。自分が動いた方が成果を出せる、と思う気持ちのほうが強くて。

ただ私も、単に「プレイヤーでいたいから」と我を通していたつもりはありません。当時のフリークアウトはまだ事業のスケールが小さく、会社全体の売上に対して、個人で作った数字の与えるインパクトがかなり大きかったんです。

現状はまだ「できる個人」がしっかり数字を作り、成果を出していくべきフェーズじゃないか。その方が会社にとってはアドバンテージがあるはず——そう考えて、プレイングマネジャーのスタイルを貫いていました。

しかし、組織が大きくなっていくにつれ、「マネジャーの役割に徹して、組織のマネジメントや人材育成にフォーカスすべきだ」と主張する他のマネジャーもいて、しょっちゅうぶつかっていましたね。衝突もあるなかでプレイングマネジャーのスタイルを貫くからには、「プレイヤーとして必ず高い成果を上げ続ける」と決め、一切妥協はしませんでした。

IPO後、同業他社も未開拓のトルコ支社立ち上げに挑む

─ 時吉をはじめとするメンバーの尽力により急成長を遂げたフリークアウトは、2014年6月、創業から3年9か月で東証マザーズ上場を果たす。しかしそれは会社にとっても、時吉自身にとっても大きなターニングポイントとなった。

短期間での急成長を目指すベンチャー企業では、IPOを一つの区切りとして捉えているメンバーが多いものです。当社も例外ではなく、事業の成長を支えてきたメンバーが多数、上場を見届けて会社を離れていきました。

実は私自身も一度、会社を辞めようとしたんです。海外留学をして、さらにキャリアを積むことを考えていました。

完全に心が固まらないまま経営陣と話したところ「それなら海外支社を立ち上げてくれないか?」と、もちかけられました。

留学するよりも、実際に海外で事業を展開する経験ができた方がいい。新しい市場を創造していくことに夢中になっていた創業期を振り返り、「次は海外で、第二創業期のチャレンジをしてみよう。」そう思い、トルコ支社を立ち上げることを決めました。

それにしても、なぜトルコだったのか——?経営陣からは、アジア圏内に支社を設立してほしいとリクエストがありました。ただ東南アジアには、すでに同業他社が多数進出していたのでつまらないなと。

そこで改めて、幅広く広告取引のトラフィックを調査してみたところ、上位に位置していることがわかったのがトルコだったんです。国内では誰も目をつけていないが商機はあると、チャレンジすることに決まりました。

2015年、私は単身トルコに渡りました。はじめて訪れる国ですから、言葉も文化もわかりません。Google翻訳に頼りながら、まずは物件を借りて、現地採用で営業スタッフを1名雇い、事業を始めました。

海外に出たことで、私のマネジメントスタイルは大きく変わりました。トルコでは「自分が成果をあげる」ことを一切捨てて、「他の人に成果をあげてもらえるようにする」ことに全力を尽くしました。理由はシンプル。言語の問題で、私自身が営業に出るよりも、現地のスタッフに営業してもらった方が効率よく成果を出せるから。

私は現地で採用したスタッフに対し、徹底的に自分の知識をインストールすることに注力しました。営業がうまくいかない人は、サービスをきちんと理解できていないことが多いんです。またそれは、知識の伝え方にも問題があるんですよね。

仕事を覚えたスタッフが、また新しい人に教えて……とリレー形式で伝達していると、どうしても内容が薄まったり、正確に伝わらなかったりします。ですから、トルコ支社では新しいスタッフを採用したら必ず私自身が教育し、私の知識・ノウハウを直接伝達するようにしていきました。

日本にいた頃とは真逆で、私のスケジュールはスタッフに対するトレーニングで片っ端から埋まっていました。言語の壁はありましたが、予め知識を言語化・図解化して明示し、足りないところは翻訳機能なども使いながら、根気よく続けていきました。
その甲斐あって、トレーニングした営業スタッフが続々と取引先を開拓し、立ち上げから半年で単月黒字を出せるまでになりました。当初の読み通り、トルコは良い市場でしたね。

ところが2015年の年末、急遽「日本に戻ってきてほしい」という話が出て——事業が軌道に乗ったとはいえ、まだトルコに渡って半年あまりしか経っていない時期です。引き続きトルコでがんばりたい気持ちが強かったのですが、数か月にわたって本社と話し合った結果、日本に戻ることを決断しました。

急拡大した組織で、表面化したひずみにメスを入れる

─ 時吉が日本に呼び戻されたのは、当時大型の事業提携が決まり、社運をかけた重大な局面を迎えて営業部門の見直しを迫られていたためである。上場後もフリークアウトは業績を拡大していたが、組織内部では急成長によるひずみが生じ始めていた。トルコから帰国し代表取締役に就任した時吉は、粛々とそこにメスを入れていった。

2017年に私が日本に戻ってきたとき、フリークアウトの社員は100名ほどに増えていました。1年でおよそ倍の数です。組織は拡大しているものの、当時の内部の状態を見て、率直にいってかなり危機的な状況だと感じざるを得ませんでした。

業界の中では急成長している企業として注目されていたこともあり、メンバーに「イケてる会社にいる自分」という奢りが生まれていて、謙虚さが失われているように感じたんです。

組織が大きくなったことで、社員の目線が社外の競合ではなく社内に向いていて、隣の部署と衝突が起きたりしていました。「全員で会社の事業を伸ばす」という協力意識が薄れ、個人主義に陥ってしまい、組織に軋轢を生んでいたんです。

また、組織の構成もいびつになっていました。役職定義が曖昧であるがためにマネジメント職が増えていき、少人数のチームでも役職者が2人いるなど、無駄に複雑な組織になっていて。さらにマネジメント職が増えすぎたおかげで、結果的に営業リソースが減少してしまう、という不合理な状況に陥っていました。

私のミッションは、そうしたひずみを一つひとつ是正して、組織を適正化していくこと。まずは営業メンバー全員と1on1を設定して、対話を繰り返しました。マネジメント職を整理し、組織をシンプルに改変していったんです。

その過程で役職を撤廃したり、降格扱いにせざるを得ないこともありました。納得できずに辞めていったメンバーも、決して少なくはありません。

しかし、不要な役職を撤廃することにより、本来の役職に対しての役割定義を明確にすることができた。その後、組織構造変更後のマネジャー陣は、役職者が何をすべきで、何をすべきではないのか、意識するようになっていきました。私とマネジャー陣の間でも、「組織をよくするために何を変革するのか」といった会話が増えました。

組織風土・構造にメスを入れ適正化することにおいて、奇策なんてものはありません。当たり前のことを当たり前に、根気強く、胆力をもってやり遂げるしかないのです。その過程で痛みも伴いましたが、当時の会社を建て直すためには必要なことだったと思います。
またそれが、優秀な若手の台頭につながり、新たなリーダーが生まれる基盤になったと考えています。

2019年1月からは、国内・海外問わずグローバル市場での競争力強化を推進するため、国内・海外広告事業を統合し、シンガポール法人FreakOut Pte. Ltd.をヘッドクオーターとする体制に移行しました。私はVice Presidentに就任し、グローバル収益化と長期的な事業成長に向けて、ここでも抜本的な構造改革を始めています。

当社では、2015年から積極的に拠点開設やM&Aを行い、海外事業は急速に売上を拡大していました。しかし、海外事業への積極的な投資により成長機会を得た一方で、各国での戦略面での不一致や、管理体制が整っていないなど、急拡大による負の側面も多く抱えていたのです。それらを全て整理し収益化にコミットすることが、当社グループにとって最重要課題の一つでした。

そういった背景のなか、2019年8月、トルコを含む複数か国の事業撤廃を実施しました。エリア戦略の観点やマネジメントが適切に行われていなかったこと、そこに政情不安も重なったことが大きな要因でした。

私が離れてから2年ぶりに見たトルコ支社は、立て直すためにはかなりの労力と時間がかかる状況となっていたのです。自身で市場調査をし立ち上げた拠点の事業撤廃は、断腸の思いでの決断でした。

この経験と判断を、今後の経営に必ず活かし、成果をつくるしかない——そう、心に決めました。

その後、2019年9月にFreakOut Pte. Ltd.のPresidentに就任し、現在は日本を含めたグローバル11ヶ国のマネジメントの全責任を担う立場となりました。

「5人目のメンバー」として入社し営業活動に駆け回っていた当初から、営業チームのマネジメント、海外支社の立ち上げ、急拡大した組織の整理、そしてグローバルマネジメントと、私がフリークアウトで担う役割はさまざまに変わってきました。

しかし私自身は、会社のフェーズによってそのとき必要なことに、最も成果が出るやり方で取り組んでいるだけ。それは、これからも変わりません。

2020年は次に向けたターニングポイント。謙虚な姿勢で向き合う

─ 2020年1月、時吉は株式会社フリークアウト・ホールディングスの執行役員に就任した。事業会社の代表に就任してから3年を経て、HDの執行役員となり、グループ経営に携わることになった時吉。また新たなチャレンジと対峙している今、フリークアウトグループの未来についてどう考えているのだろうか。

2017年から3年にわたって、私は国内・海外含め、組織と事業の整理に徹してきました。地固めも非常に大切なことではありますが、現在のフリークアウトは、新しいことに挑むべきフェーズにあると考えています。

新たな事業の種を見つけてスモールトライを積極的に行うなど、次の中期を見据えた取り組みを始めないといけない。2020年は、フリークアウトにとって次の成果に向けたターニングポイントになるでしょう。

冷静に現時点のDSP広告市場を観察してみると、競争が激化した結果、大きい資本の独占が始まりつつあります。それはすべての産業が通る道。ここから淘汰が起こるのは必然です。だからこそ次のブレイクスルーを起こさなければ、生き残っていくことは難しいのです。

確かに当社は短期間に急成長を遂げたかもしれない。おかげさまで上場もでき、業界で注目していただくことも多い。でも実際は、世の中に何百万社もあるうちの1社、ただの中小企業にすぎません。

ビジネス環境はどんどん変わります。だからこそ現時点での自己評価が高かったら、ハングリー精神も何も生まれないですよね。「まだまだ、自分たちには足りない部分がある」と考えて、会社としても、私個人としても、引き続きチャレンジを続けていかなければならないと思っています。

最後に、市場環境は厳しいといいましたが、悲観的には思っていません。今は他の市場が注目され、そちらに人やお金がに移っている。しかし、そんな今こそ広告市場にはビジネスチャンスがあると思っています。

広告市場の中でも特にAdTech市場は規模が大きくなり、淘汰もされてきました。ただ、この市場は流れが早く、あと数年でまた大きな”うねり”がくるはずです。他の市場と違って、次の変化で上位プレイヤーが入れ替わる可能性も十分にある。

そうしたダイナミックな市場の変動を経験することは、人生で多くないはず。私がDSP黎明期で体験したようなことが、再び起こる可能性が高いと感じています。

重要なのは、短期ではなく中長期で見る目と、世に送り出す事業で希少性を生み出せるかどうか。フリークアウトとしても個人としても、誰もやっていないこと、体験していないことこそ価値になると思います。将来的には市場を変えるその大きな”うねり”を、自ら創りだしていきたいですね。